創業が昭和35年(1960年)、今年令和2年(2020年)で60周年。
エピソードを交えながら当社の歩みを綴ります。
昭和12年~昭和20年 修行時代から敗戦まで
有限会社フジックスの起点はここから始まりました。
創業者上野篤義(父)は喜界島小野津から上京し、叔父の岩井源輔(岩井塗装所社長)を頼り、昭和12年4月岩井塗装所(東京市豊島區池袋)に入所。
(鹿児島県大島郡小野津小学校出身(尋常小学校高等科卒)入所は15歳の時と思われます。)※当時の学制で高等科は15歳で修了するので、昭和17年で20歳。
その年、日支事変(大東亜戦争)勃発と本人はかなり不安な思いを抱いていたようです。
叔母の話によると、岩井塗装所社長岩井源輔はブラジルへ移民しようと迷っていたそうで「占い」により止めて上京したとか。徒手空拳から独立を果たし池袋で工場を設立した時期が昭和初期、世界大恐慌と重なっていた頃です。
ブラジル移民が始まったのが明治41年(1908)、源輔(明治39年生)の年齢から察すると移民を考えていたのは大正年間半か末期と思われます。
修行明けの記念写真
左安藤先生、写真中央が本人、右岩井社長
当時、岩井塗装所は東京光学(現株式会社トプコン)のカメラ、双眼鏡の塗装を手掛けていました。
岩井塗装所に働いていた従業員の構成が、「奄美出身者の動向と東京におけるSegregationの形成」の論文より確かめられました。
1938年当時の年令を基準に再現してみると次の様になるだろう。すなわち,山元正 宜氏の場合本人(37才)のところで, 22才, 19才, 15才の3人の男子が働き,盛英信氏の場合,本 人(28才)のところで, 16才の男子2人と19才の女子1人,計3人が働き,また,岩井源輔氏のと ころでは,本人(37才)のほか, 23才が2人, 21才, 20才, 18才, 17才, 16才, 15才各1人合計8 人の男子と31才, 28才, 19才の女子3人総計11人の者が働いていたことになる。この事は,先人の 開拓者がおり,その人達を頼って後出の若い者達が異郷の地東京へ進出し,そこを拠点にして,自 分達の生活の基礎を築こうとしていた事を示すものであろう。この開拓者に相当する人達が山元正宜氏,盛英信氏,岩井源輔氏などであったのである。 (出典:奄美出身者の動向と東京におけるSegregationの形成)
写真右から3人目岩井社長夫人、4人目創業者篤義 写真左端 岩井社長
創業者16、7歳頃?
立て看板に「従業員心身慰安の庭園」とあり
工場敷地内で撮影か?
創業者の顔が修行明け時代に比べると幼さがあり昭和13,4年頃と思われる。
岩井社長、夫人(施意子)も若い。
亡くなった母が岩井社長は立派な人と口癖のように言っていた事は、この様な厚生施設をあの時代に造るくらい従業員を大切にしていたからなのでしょうか。
昭和13年(1938年)に小野津出身者11名で、写真では30数名の従業員がいます、内地の人も勤めていたのでしょう。
父が言うに、安藤先生という方、岩井塗装所の月一回、従業員研修を担当されていたそうです。この話を聞いたときあの時代から社員教育に力を入れていた事を意外に思いました。
後年、父は先生から教わった言葉として熊沢蕃山の「憂き事のなお、この上に積もれかし、限りある身の力試さん」と折に触れ語っていました。
座右の銘と心に刻んでいたのでしょう。
創業者が隠居した際に習字を習い書き上げた掛け軸、号は岳風。
修業明けの年に日本はミッドウエー海戦で敗北を喫しています。
「ミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん、英語: Battle of Midway)は、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)中の1942年(昭和17年)6月5日(アメリカ標準時では6月4日)から7日(6月3日から5日とする場合もある)にかけて、ミッドウェー島付近で行われた海戦。同島攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で発生し、日本海軍機動部隊とアメリカ海軍機動部隊および同島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は投入した空母4隻とその搭載機約290機の全てを喪失した。ミッドウェー海戦はMI作戦の一部であり、この敗北で同作戦は中止された。」ウキペディアより。
国民にはその敗北は秘密とされ知らされませんでした。
この頃の事を叔母に聞いた事があります。
岩井塗装所は夜遅くまで従業員は働いていたそうです。
東京光学は陸軍の御用達、双眼鏡など軍需品の塗装に追われる日々。
従業員が着ている服が国民服、戦時中と偲ばれます。
創業者上野篤義はこれを機に独立をしたいと叔父に申し出たそうですが、若いからと引き留められたとか、動機は独立すれば叔父のように裕福になれると思ったそうです。(父の弁)
※東京光学が設立されたのは昭和7年です。設立と同時に生産されたのが「双眼鏡モナーク」でした。機種は、6X15 6X30、8X21,8X25, 12X35, などです。設立時から更に昭和20年つまり終戦までには、上記機種のほか「レノックス」(6X20.6X24,6X25など)「エルデ」(6X30)これらのブランド機種も生産されました。日本光学が主に帝国海軍の御用達であったのに反し、東京光学は陸軍を主力にして発展してきました。従って東京光学の双眼鏡は地上戦用が多かったので小型の機種が目につきます。一方、日本光学の場合は御承知の通り 7X50、つまり50ミリ口径の大型双眼鏡が海軍の主力となっていました。
ネット記事より。
上記の双眼鏡は、昭和7年設立時から20年までに生産された「モナーク8X25」—それだと断定している双眼鏡です。トプコンにはそれ以外の8X25は見あたりませんので断定は正確な筈です。
なおカバーにはNo:76364と刻印されてあります。ケースには所有者の名前らしく「北村」の文字が読めます。(出典元:ネット記事)社長ブログより。
この記事を見た時、父が塗装を手掛けた製品と思い、懐かしく思いました。
あれから、78年が経っています。
この頃から戦局は悪化し、勤めていた岩井塗装所は戦災で焼失してしまいます。
岩井塗装所では、身の安全を図るために埼玉の幸手町に家族、従業員ともども疎開をしていました。(姉の弁)
豊島区役所の広報に拠ると時期は下記の通り。
「池袋をはじめ豊島区は1945(昭和20)年4月13日を中心とする大空襲により、大きな被害を受け、豊島区東部から中央部にかけては、ほとんど焼け野原になりました。池袋駅も焼けましたが、ここは山手線が通り、赤羽線・武蔵野鉄道(現西武池袋線)・東武東上線の終点でもあり、交通の要所でした。しかも武蔵野鉄道や東上線の沿線は戦災にあわないところが多く、池袋は大きな購買力をもつ地域を背後にかかえていたことになります。これらの条件があって、池袋は典型的なヤミ市が形成される街となりました。」出典元:豊島区役所広報より。
おそらくこの空襲で焼けたのでしょう。
昭和19年~昭和22年頃 幸手町疎開時代
終戦前、父は板橋区小豆沢辺りに住んでいましたが、幸手町(叔父が所有していた家?もしくは借家)に疎開、岩井塗装所が焼失し戦後は生活の糧を得るために、団子売、タイガー紙(辞書に使われる紙)の露店商(上野松坂屋前で)、ノートの行商(リヤカーにノートをいっぱい積んだそうです)などをやって生活を立てていました。
親戚筋にノートを製本する会社を経営していた人がおり、その方の好意により仕入れができたようです。
昭和21年~昭和31年 行商・文房具屋時代 店名 大洋堂 当時の電話番号 (33)9000
物不足の時代でしたから、需要がありよく売れたそうです。
昭和22年に文房具屋(大洋堂)を千代田区飯田町で開業します。
※姉に聴くと、昭和23年頃はまだ店装がなく土間だけと記憶があると!
飯田橋駅、目白通りに面した場所でした。
この頃ラジオで聞きおぼえた歌が津村謙「上海帰りのリル」、お店の3畳間だった。
昭和天皇陛下がバイクを先導に御料車で通られた目白通り。
右手が飯田橋駅東口早稲田方面、左は九段下にぬける。
店内から目白通りに向かって撮影したものと思われます。
昭和20年代後半の撮影、四角いブロックで敷き詰められた歩道、そして目白通り、さらに都電の軌道面が写っている。
文房具屋 大洋堂の前にて、右寄り祖母、長女、義叔母、叔母
昭和28年夏
昭和31年~昭和34年 創業準備時代
某メーカーの塗装部に勤務。
岩井塗装所で身に付けた技能を生かし、後に塗装工場を興すことになります。
昭和35年創業年
昭和35年 フミノ塗装を開業、翌年 昭和36年フジ美術塗装工業所と社名変更。
板橋区前野町6丁目37番地に工場を興す。
創業当時の写真、
左上にダクトと看板がある建物が工場です。
記憶に拠れば敷地は20数坪と聞いています。
この地から、
昭和47年2月 埼玉県新座市野火止に移転
昭和48年に石油危機と呼ばれた石油不足が起きた時代。
「その後、1970年代末から1980年代初頭にかけて、原油価格は再び高騰しました。1978年にOPEC(石油輸出国機構)が段階的に原油価格の大幅値上げを実施したことに加え、1979年2月のイラン革命や1980年9月に勃発したイラン・イラク戦争の影響が重なり、国際原油価格は約3年間で約2.7倍にも跳ね上がりました。これが第2次オイルショックです。この時もインフレが起こり、国内景気が減速することになりました。」 ネット記事より。
私の経験では、灯油が手に入らず、友人の伝手で大泉学園にあったガソリンスタンドで調達した思い出が、巷ではトイレットペーパー不足となりスーパーでは大混乱。
前野町から移転して11年経て川越に移ることに!
昭和58年7月に現在の場所、川越市下赤阪大野原742-7に移転
現在の川越工場へと規模を拡大。
移転当時の全景と入り口付近
前処理装置全景
当時の作業場の様子、今とは大分違っています。
昭和63年12月、所沢工場設立
場所は所沢市南永井342-2
今は倉庫業の会社になっている、地主さんが貸しているのか?
東京都の新技術開発助成金を交付して頂き造った自動塗装機です。
16坪ほどのスペースに収めたコンパクトなラインでした。操作技術と運用面の確立に半年ほど要しました。
この時期、日本はバブル経済時期となり、人件費高騰など日本国中は浮かれていた時代。
巷では若者たちが正規の仕事に就かずアルバイトで稼ぎ、海外旅行を楽しんだ時代です。
そんなことした若者たち崩壊後、キリギリスではないけれと大きな代償をこうむることになり、平成大不況では職が無く炊き出しに並ぶ羽目に!
「バブル崩壊という現象は、単に景気循環における景気後退という面だけでなく、急激な信用収縮、土地や株の高値を維持してきた投機意欲の急激な減退、そして政策の錯誤が絡んでいる。
1980年代後半には地価は異常な伸びを見せた。公示価格では北海道、東北、四国、九州など、1993年頃まで地価が高騰していた地方都市もある。
バブル経済時代に土地を担保に行われた融資は、地価の下落により、担保価値が融資額を下回る担保割れの状態に陥った。また各事業会社の収益は、未曾有の不景気で大きく低下した。こうして、銀行が大量に抱え込むことになった不良債権は銀行経営を悪化させ、大きなツケとして1990年代に残された。
また、4大証券会社(野村證券・山一証券・日興証券・大和証券)は、株取引で損失を被った一部の顧客に対して損失補填を行ったため、証券取引等監視委員会設立のきっかけとなった。」ネット記事より。
所沢工場の様子
左 勝山塗料社長 中 二代目 右 設備メーカーユーブイテクニカ社長
ファンフレーム自動塗装コンパクトライン立ち上げ期の社長(二代目)
複雑な形状のワークの塗装が可能となりました。
平成元年12月、川越第二工場設立
場所:川越市下赤坂568ー17
エアゾール缶のフタ:(マウンテンカップ)のコート専用自動塗装ライン。
コートされたM-CUP(マウンテンカップ)が乾燥炉から出てくるところ。
平成に入ると、バブル崩壊から平成大不況となる時期、失われた10年と呼ばれ、デフレ時代となる。
所沢工場から引き続き、マウンテンカップ自動塗装機の改良に取り組む社長(二代目)
創設当時のメンバー 左より阿部(61歳頃)、ヴィッキー(20代前半) 二代目(42歳)
人手不足の為パキスタン人を使っていた。
乾燥炉 現在の様子
本社工場現在の様子
令和の御代になり、世情はコロナ禍で全国で対策に追われる中、観光事業、飲食業など自粛で経営困難になっている。延期されたオリンピック開催に向け賛否両論の中政府は様々な問題を抱えつつ対応し成功に向けて頑張っている。前回の1963年(昭和38年)の時の雰囲気とは全く違う開催となる。
振り返れば当社、1937年(昭和12年)創業者が塗装業について、戦後紆余曲折を経て昭和35年に創業し、今年令和3年で61年を迎える事となった。
会社も還暦を終えて、心機一転の年となりました。